アメリカに来る少し前から、New York Timesの購読を続けています。先日、その中で気になる記事を見つけました。AIと、ライティング教育のジレンマについての記事です。

🗞️ 参考記事:As Students Use AI, Schools Rethink the Homework Essay(New York Times, 2026.04.30)

教える立場の難しさ

高校や大学でのライティングの授業とAIの使用をめぐるジレンマが描かれていて、AIでエッセイを作るのを防ぐために、最近では授業中にライティングをやらせるところも増えている、というような話が紹介されていました(コメント欄も賛成・反対、様々な意見であふれていました)。

教える立場になってみたら、いまのAIの状況って本当にどうなんだろう、と素朴に思います。提出された課題がほとんどAIで書かれたもので、それを評価しろと言われても、確かに困りますよね。

書く技術が、いきなり置き換わるという違和感

書くことって、本当に難しい作業だと思います。白紙を前に、なかなか筆が進まない——そんな経験、よくありますよね。

小学生時代の読書感想文や日記から始まって、その後大学に至るまで、いや仕事においても「書く・まとめる」ことはひとつの重要な能力とされてきたわけで、それが数年のうちに技術的に取って代わられる、となると、誰しもちょっと違和感を覚えたり、不安になったりすることもあると思います。(もちろん恩恵もこうむっているんですが!)

「大人は学校時代に書く能力を身につけて、その上でAIを使っているからいいんだ」という主張もよく耳にします(自分を棚にあげているわけじゃないんですが、笑)。

その基盤なしに育つ世代

ふと気になるのは、「AIで書く」ことが当たり前の時代に育った世代(たまごの子供の世代)が、これからどういう世界をつくっていくのだろう、というちょっとした不安の混じった疑問。

書く力の基盤を持たないまま「AIで書く」ことが当たり前になったとき、自分の頭で考えをまとめ、形にする力はどうやって育つのだろう。それとも、新しい形で別の力が育っていくのかもしれません。これは答えのない問いだと思いますが、親としては気にせざるを得ないテーマです。

残ってほしい、その人らしさ

AIで書かれた文章の特徴としてよく言われるのが、「書いたものから個性が消える」ということ。なんとなくきれいに整っているけれど、誰が書いたかは分からない。

なんとなく思うのは、たとえ基本的な書く技術・まとめる技術が(語弊を恐れずに言えば)不要になっていったとしても、その先に残る「個性」、その人独特の何かは残ってほしいな、ということです。自分が何を書いているのか、何を伝えたいのか、それがわからないままにきれいに整った文章だけが流れていく、その状況には少し虚無感を感じます。

書き方は変わっても、書いた人らしさだけは残ってほしい。

その個性をかたちづくるのは、結局その人自身が実際に体験したり、人と交わったりして積み重ねてきたものなのだろうし、それでしか形づくれないものじゃないかと思います。


AIのすごさは、その普及スピード

これまでにもテクノロジーの大きな変化はいくつもありました。テレビ、ビデオ、パソコン、携帯、スマートフォン。それぞれが社会を変えてきましたし、それに頼る、ということに対する批判のようなものはあったと思います。

AIのすごいところは、それが及ぼす影響の大きさに対して、普及していく時間がとても短いことだと思うんです。

🖼️ 参考図:テクノロジーとその普及スピード(AI作!)

テレビが10〜20年かけて広がったところを、生成AIは1〜2年でやってのけている。社会が制度や教育を整える猶予が、明らかに短くなっています。

だからこそ、自分の中の「AIに任せていい部分」と「自分で持っておきたい部分」を、ちゃんと考えておきたいなと思うわけです。子供たちにも、押しつけずに、でも何かは伝えていきたい。そんなことを、NYTの記事を読みながら考えていました。

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